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文学散歩・東京編

石川啄木の足跡

写真をクリックして、『恋しくて来ぬ啄木郷』番外編として生原稿をお楽しみください。
大栄館になる前

蓋平館

下宿先である蓋平館(建物はS29年12月焼失)

大栄館

大栄館

ふるさとの空遠みかも
高き屋にひとりのぼりて愁ひて下る

菊坂町

菊坂町界隈

北海道から上京して落ち着いた菊坂町

質屋

質屋『伊勢屋』

一葉ものれんをくぐったと言われている質屋 『伊勢屋』さん

北海道から上京して落ち着いた菊坂町.......
甚くさいなまれていた啄木が、突然北海道から上京して落ち着いたのも、この本郷菊坂町界隈であった。当時、金田一京助が下宿をしていた菊坂町の「赤心館」(現在、オルガノ(株)の敷地内)に転がり込んできた。突然の居候を抱えて、困惑しているのは、京助の方かと思いきや、さにあらず、「朋あり、遠方より来たる、亦楽しからずや」である。盛中時代には、同じ文学を志し、共感を味わった同志でもある。長い間のご無沙汰をわびて、お互いに旧交を温めあった。
恋しくて来ぬ啄木郷の書籍表紙
啄木の歌が初めて掲載された『明星』   明治35年(1902)
文京区地図
東京5     東京6
    
明治浅草駅

明治時代の上野駅

東京上京原稿
 
啄木の人間性について考えてみる時、啄木と言う人間は、他人を踏み台にして生きてきた人のように映ってくる。特に、金田一京助のご子息である春彦氏 (長男・現在上智大学教授・文学博士)に言わせれば、子供心にも、啄木と言う人は、悪人の代名詞である石川五右衛門の弟のようにしか思っていなかったと言う。また、啄木と言う人は、自分たちの生活の敵であり、母を困らせる憎い存在であったとも述べられている。(「公研」21巻・第3号)以上は、冷酷ながらも含畜のある言葉であり、啄木のある一面をも語っていると思われる。
啄木と接触のあった当事者の金田一京助と言う人間は、あたかも生き仏のような存在であったと言われる程、人間ができていたようである。だから、例え自分の身の回りの品がなくなっても、あまり詮索することなく、平静を装っていたようである。京助は、終生「啄木に騙された」等とは一言もおくびにも出さず、むしろ、啄木のためになるならと言っては、物資面で、精神面においても、底辺から支えていた人物である。 そこには「施して恩を求めず」の京助なりの哲学があったと思われる。そして、このような人間と人間との友情は、残念であるが、今日の時代には成立しにくいパターンである。何故にか京助の人間に対する態度に、人間関係の原点を見透かされた思いがしてならない。